大林秀弥先生への弔辞、永久のお別れに当たって

2001年4月6日/津山シティーホールにて

大林秀弥さんとのお別れにあたって
 大林先生、先生と、こんなに早く、お別れをするとは、夢にも考えられなかった出来事です。  昨年の12月末、「少し、身体の調子を悪くしてね、色々面倒をかけるが、よろしくたのむよ・・・」と電話をいただき、びっくりしてお邪魔してから、わずか、三カ月しかたっていません。
  その電話以来、先生が名付けた「末永軍団」の新しい“夢発信”である、訪問介護としての付き合いがはじまり、毎日のように、身体の調子を聞いたり、ときには、私への伝言などもお聞きして来ました。
 すぐ帰られる、との感じで「入院」の報を聞いたのが3月4日、ちょうど1カ月前です。
 結果として、先生と最後のお別れとなったのは、事態が急変する直前の4月2日の夕方でした。何かをいいたそうに、こっくり、こっくり、何度もうなずいたお顔が思い出されます。
 あー、先生は、あれと、これとが言いたいのだな、と解釈をしてメモを残してかえりましたが、あれが永遠のお別れになるとは・・・・。
  激しい痛みと、長患いでなかった、大往生、先生らしさ、というべきでしょうが、あまりにも「あっけない別れ」は、非情というものです。
  先生は、子どもみたいな真っ正直ななか、剛健(ごうけん)一筋、時には、頑固と思われるほど、一言誇示(こじ)でもありました。
  「末永くん、だからネー、君は・・・」と言われたら、10年は疼く、こんな面をもちながら、私たちに、様々な、本当に、数多くの遺産をのこしてくれました。今は亡き、北原先生にかわって、日本共産党後援会長として表舞台にでられて20年を越えると思います。先生を後援会長にして、わたしも含めて、多くの地方議員が生まれました。そして、学者文化人としての智恵で、民主的な地方政治の在り方、地方議員の在り方を指導してくださいました。
  先生の誇りのひとつであります「6・9行動」は、264回目を迎えます。雨の日も、風の日も、暑いなかでも、台風の中でも20年を越えて、月一回の平和を愛する「署名活動」は続けられました。さらに、上斎原へ、阿波へ、勝央から大原へ、そして、鏡野へ、多くの自治体を先生と歩いて来ました、「広島・長崎アピール」署名が、美作地域すべての自治体で「人口過半数の達成」をなしとげたのは、先生の一つの勲章です。
  平和をテーマに、「国連」へ出向かれ「広島・長崎アピール」を世界的規模に持ち上げられました。
  今、祭壇に飾られた写真は、この時の元気なお姿だと思います。
  部落解放運動史誌「つやまのあゆみ」事務局長として編纂をして頂き、広島県北部へ、部落解放同盟が無法の限りをおこなう姿を、少しでも「よくしたい」と大雪の中、加計町、千代田町と、講演会をくりかえしてきましたが、いつも、温和な、先生の姿が、「津山からのレポート講演会」にどれだけ大きな価値観をあたえたか、そして、先生の存在が、どれだけ、私たちを元気づけたことか、図りしれないものがあります。
  学者としての地味な研究や活動とあわせて、今年、1月20日に出版記念祝賀会が行われた、「わが生涯と学習の記録」に、それぞれ思い出として記述されています。
  そして、先生のそばには、いつも「優しくて厳格な奥さん」の姿があり、二人で「ごきげんいかが」を、とても愛読してくださり、百号ごとの「節目発刊祭」には、必ず「一言のお祝い」をいただきました。心からの感謝をささげます。
  これらの一つ、一つが走馬灯のように、頭をよぎります。学者としての研究をのぞけば、三十年にわたって、とてもお世話になり、幸いなことに先生の多くの活動に、私は、かかわって来ることができました。言葉では、いい尽くせないお世話になり、ご迷惑をかけて来ました。
  だだっこが、心配をかけることが、「死んでも死に切れない」と、先生が長生きのできる保証だと、さらに、我がままを言って来た私でした。
  先生の訃報を聞いたときから、頭の中は「真っ白」とでもいうのでしょうか、何か、とても気が重いものを引きずっています。先生は、もっと、もっと、長生きをして、私たちの「我がまま」を聞き届け、「末永くん、僕はネー・・・」と叱ってくれるべきです。
  先生、なぜ、これほどまでに、急いで、私たちの前からいなくなってしまったのですか、先生ほど、ゆっくりと慎重に物事を考えていた人はめずらしかったのに・・・・・・・かえすがえすも、残念、痛恨のきわみです。

  貴重な、津山の宝物が、一つ、消えてしまいました。しかも、代がえのない大切な宝でした。 新しい世紀、21世紀冒頭からのかなしみですが、皆が力をあわせて、この悲しみをのりこえていきます。
  先生の意志は、私たちで引きつぐことができます、真面目な人が損をするような世の中であってはならない、いつも先生が話されていたことです。
  きれいな力が、国をかえます、そんな世の中を作ることは、先生の意志を引き継ぐ、私たちの仕事であり、志し半ばにして、病に倒れた、先生への、恩返しでもあります。大林先生、先生・・と呼んでも、もう返事はしてくれないのですか・・・・。
  いつまでも、天国から、私たちを励まして下さい・・・、
  大林秀弥先生との、永遠の別れにあたって・・・・
      先生、本当に、お世話になりました、心静かにお休み下さい。
             先生、さようなら・・・・・。  2001年4月6日   末永 弘之

私たちは、大林先生を偲ぶ会催し、「末永軍団」最後のお礼と考えて、奥さんに贈りました。

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