私の半生記の記録この事件が一つの分岐点でした。
−日本共産党員としての苦悩と真の同士愛−

左の写真は、美作水平社創立80周年記念集会(運動を閉じた日)において半生記の記録に書き下ろすべき方々と、見土路・葛原・島田の各位と・・・。
★高野モ貝事件をめぐる津山市協議会と県オルグのいざこざ
記録をみる限り1971(昭46)年の出来事ですから30年前、随分と昔の物語です。私が党の専従から、当時統一していた「部落解放同盟津山市協議会の支部長」と「青年部責任者」という役職になりたての事件でしょうか。まだ、津山市協議会へ全面的に任務が移行していなかった頃だと思います。
★「高野モ貝事件」というのがおこります。事件の内容も、大切なことは忘れているものですが、地区の人の売るモ貝を「買うとか買わないとか」のイザコザが起こり、地区の人が地区外の人に「難癖をつけて、金品を脅し取る目的で(この部分はよく見えなかったと思う)部落を利用する」、全体の構想はこんな感じで記憶が残っています、「差別事件」とも「差別事象」とも言いがたい事件でした。。
最初のうち、「地区の人が売る、売れ残ったモ貝を買ったが、傷んでいた」などの件で「確認会」が開催されたときのことです。

この「確認会」の評価をめぐって、当時の県委員会で論議となり、県連合会の美作地区担当のオルグ責任者のT氏が「津山の確認会はなってない、あれは何なら・・・・、あれでは同盟がなめられる・・・・」という意味の発言を県委員会の席で述べたところから事件が始まりました。
そもそもの事の起こりは、この確認会の県委員会の席でした。
津山市協議会幹部の怒り
★T氏が「津山市協議会はなっとならない、あんな運動をしていたら行政に舐められる、確認会とは何か、モット勉強する必要がある、津山市協議会は日和見主義におちている」との旨を発言したのが事の発端です
★T氏の日頃の指導や行いを「偽共の親分」と評価して、快く思っていなかった津山市協議会の三役は「もう一辺言うてみんさい、あんたも当日参加し、休憩中にも指導をし、まとめをしたのはあんたじぁがな、自分が指導しておって何を言うておるのか、津山を馬鹿にするんか」と猛反発でした。
ためしに当時の書記長は、非党員で軍隊あがり「八鹿高校裁判」の時に、ゼッケンをつけて傍聴に望む解放同盟員を「何をつけて入っとっんなら」と一括し、さすがの丸尾集団も、ゼッケンをはずして傍聴に望ませたというエピソードの持ち主です。
この人が、鶴の一声、「T、何なら、津山と喧嘩をするんじあーな。やっちゃるけん、言うてみんさい、あんたが共産党か、何かしらんが、津山がうけてたっちゃるけん、・・・・・」でした。

T氏は、この事件が起こる数年前までは、日本共産党公認の○○町会議員を4期ほど務め、勇退、後輩に身をゆずり、自分は補助金まるかがえの「解放同盟岡山県連合会の専従」となり、レッキとした日本共産党員で、津山を含めての専従オルグでした。
★もちろん、T氏は「反省したり、いい直しをしたり」するタイプでは絶対になかった、「よぉー、諸君」といって、ポーズを取りながら「解放会館」によく現れていました。そして、津山市協議会の非党員幹部に対して「反共」とのレッテルを押しており、細かいことは忘れたが、県連合会と津山市協議会が険悪な状態となり、津山市協議会で何回か「役員会」が行われし、県連に抗議、T氏の処分などを求める方法が示唆され、事態は一層複雑に展開することとなった。もちろん一連の会議には支部長として私も参加していた。市議会議員になりたての頃かと思う。27歳か28歳、もの珍しいだけが取り得の頃です
★この後、何回か、党の会議や話し合いももたれたと思いますが、「津山市協議会の確認会を直接指導して、途中の休憩中も指導した」という経過と、その後津山市協議会の会議での指導は「一言もなかった」のに突然と、県連の会議で津山を批判するという「やり方」への反省が求められたと思います。

当時の部落解放運動の組織図など
当時は、今の全解連と解放同盟に「分裂」する前後、岡山県連合会は、部落解放正常化連絡会議に加入する人たちが多くをしめていた。しかし、全体は完全な「補助金依存体質」の中にあり、岡山県を3つのブロック・美作・備中・備前にわけて地区委員会が存在し、県連の中に、それぞれの地区出身の「オルグ」と称する常勤者がおり、時々地区に指導という名により訪れたり、交渉や会議・行事などがあれば参加して、県連代表挨拶は、本当に流暢にこなし、見事な活動家であった。
美作地域は、津山市を中心として一市5郡(31の自治体)を有し、その中で25の自治体に、いわゆる同和地区が存在していた。
3、まったくの雑感(話をわかりやすくするコーナー、30年前のお話)
気がつくと、非党員の活動家が「偽共」と評価する場合、話はとても上手、やり手であり、かなりのキャリアをもっており、それぞの地域や行政には「恐れられる」感じで影響力が強く、行政に電話一本で「部落問題学習会」などには10数人の動員は軽くこなす人たちである。
もちろん党員である、が、・・・・動かない、選挙の時などストーブに手をかざしたりして「分析はするが、ビラは配らない(配らないどころか、配っても票になるまい、と論評はする)支持拡大もしない」式の活動振りを見て述べていることが、少しずつですがわかりかけた時でもあり、このT氏も「元党の町会議員」でもあり、解放運動の名により、かなりの「力」で影響力をもっていた一人でした。この事件がおこったときは、津山市協議会3役の中には1/5の党員しかいなかった。常勤者は3人、いずれもが非党員であった。
津山市協議会の上部組織、美作地区協議会は逆に4/5の関係であったと思う。この4と県連の活動家の中の数人を「偽共」と称していた。
物騒な結論でなく、反省を求めるべき
一連の会議の中で、「T氏に反省をすべきだ」と申し上げ、津山市協議会の中では、「処分を求めるなど物騒なことはいわないで、話し合いを・・・」の論調を主張したと思うが支部長・役員会で2〜3/30ぐらいの党員比率の中、県連に意見や抗議を行う方向が出される事態となっていきます、双方が、陰口のようにして、「津山市協議会の反共連中が・・・」となり、その津山市協議会からみれば「県連や美作地区内の偽共の者どもが・・・」の言葉のやりとりが続き、双方に関係する私に対して、双方から随分と「お互いの悪口」を聞かされました。美作地区の常勤の指導が入れば入るほど、県や美作地区に反発が強くなり、「何で」・・・・とやや、不思議な感がした、?、の思いが強かった記憶が印象深く残っている。
この思いがある限り・・・
個別折衝のような形で、津山市協議会のメンバーと何回か話し合ったと記憶するが、忘れられないのは「どうせ、共産党の連中が一緒になって、ええかげんなことしかしない、わしらの意見がとおるものか、反省もするもんか、しかし、絶対にこらえん、共産党の連中が好きなことをやってみんさい・・・、このさいに決着をつける・・・、末永お前も共産党じぁけん・・・・」こんな意味の話を聞かされ、この人たちの想いが痛いほど強く、私の心を揺さぶったことである。
そして、「そんなことがあるものか、いい加減なことで幕は引かない、共産党はそんなところではない、少なくとも反省はするはず・・・。」と何回か説明をするが、事実「反省の色ナシ」で、むしろ津山市協議会の運動の弱点の指摘がはじまった、「津山市協議会は、そもそも、情けない運動である・・・・」とまさに、津山市協議会の人たちが主張する方向へ事態が流れかけたのである。
こんなことがあるものか、私の知っている共産党は「少なくとも反省はするはずである・・・、何が狂っているのか・・・」今だから恰好よく言えるが、葛藤が始まったのである、一体どうなっているのか、これで党が大きくなれるのか、日本共産党は、岡山県や美作地区内の部落解放運動に強い影響力をもっているのではないのか、そんな感じでした。
情けないと評価される津山市の問題点は?
★岡山県全体の各自治体から運動団体にだされていた「補助金」は、予算規模や地区民人口や運動への参加などを考えれば、かなり少なく受け取っていた。→24の地区を包含し約8000人世帯を組織していた、他の市町村を考えればこの当時で5千万や6千万円補助金があってもおかしくなかった、一つの地区しかない自治体でも数百万円は補助金があった、津山市は800万円程度の時代と思う、そして、その補助金から、県や地区が行う各種集会・研究会などに「日当動員」は津山市だけが行なっていなかった。←
★同和事業が始まっていたが、個人施策の給付事業は「完全な低所得者制度」に徹していた。
★統一していた「解放同盟」だけでなく、町内会や議員や民生委員や個人、誰でもが「制度の要望」が出来るようにしていた。
これらの津山市協議会の「同和施策のあり方」を認めて、それ以上の要求を出さないことに対して、「ものすごい圧力」があり、「津山は情けない組織・・・」と称されていた、ここが、「反共」と「偽共」の分かれ道・・・?、
こんなときに、津山市協議会の「青年行動隊長」が、27歳で日本共産党の市議会議員になったわけです、双方から「大きな期待と関心」が寄せられたのは容易にお気づきになると思います・・・・・。「反共」の道へ行くか「偽共」の道へ行くか・・・・・、その中間があるのか、ないのか、「容共の道は何か」?・・・・・・・・、まさに今から考えれば試金石でありました・・・・。今、30年前を考えますと、極めて微妙な立場に立たされていたものです。。。。。。
★すこしお茶など飲んでから一気に読みきってください。
だから「嫌」でした、この運動に身をおいてしまうと「自分が汚れる」と感じたのは間違いのない事実です、・・・・、日本共産党の常勤から、何で「部落解放運動」へ移行したのか、ここをクリックしてください、読んだら帰ってきてくださいね。
結論としては津山市協議会の「偽共」と称される人たちに誉めてもらいました、それが、部落解放同盟津山市協議会が「分裂の嵐」の中でも、ほぼ9.5割の会員の人たちと、正常化連絡会議〜全解連へと改組発展させ、全国に「夢発信」できる組織を作ることが出来た原因と考えています。ここが本当に分岐点でした。
共産党員なら、常任の私が言っている意味を理解してほしい
★最終的には、津山市協議会役員会に、県連と美作地区の幹部が参加して「善後策」などが協議されました、細かい記憶はありませんが「Tさん、一つは自分が直接指導した確認会の成り行きで、その総括を自分は正しいが津山は間違っている、というのもおかしいし、それを返す刀で、そもそも津山市の運動は情けない、おかしい運動だと一般的に非難するのも卑怯、指導になっていない。そして、津山市のやっている『同和事業』は、おかしくはない、むしろ正しいのではないか、そこをお互いが考えるべきだと思う、補助金で養われて、補助金で多数の会員を日当動員して学習会に、各種大会に沢山の人があつまって成功だ、という考えが少しへんではないか・・・・、ともかく、すみませんが、共産党の地区の常任委員をして、つまらないながら市議会議員をしている私の意見です、党員なら、私が大衆団体の前で申し上げているということを良く考えて、反省してほしい・・・・、同和事業も考えてほしい・・・・。
★こんな意味合いのことを、最後の会議で何回か申し上げた記憶があります、そして、全解連(当時は部落解放同盟の名称であった)県連や地区内の党員や「偽共」の人たちから「言いすぎ」との、やや非難もされたのも事実ですが、「偽共」の人たちから「反共」と言われる人々から・・・・「末永は違う」と言われ始めました、藤沢、大成、水杉、光岡という津山市協議会の三役の人たちから・・・・、そして、本当の「反共思想の持ち主」たちも、「末永は、違っている・・・・」と言われるようにもなっていきます。これが、9割の「社民の人たち」といわれる組織を、9,5割、全解連津山市協議会へ組織化してこれた原因でもあります。ほぼ、これで、この物語は終了です、偽共とか反共とか、失礼な表現で、わかりにくい組み立てになっていますが、やや、人々を「わかるように色分け」して解説しました。

あなたならどうする、その1→同和地区の人間か
        その2→同和事業は行きすぎ、逆差別
        その3→もうなんともおもわないよ、差別はなくなったと思う
        その4→子どもたちにどう教えるか、部落について
        その5→いろんなことがありました、雑感のページへ

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