差別はないと思うよ、なんとも思わないよ

 こんな意見によく出会いました。それにたいする対応も歴史の刻み、遍歴があります。
20年前後前までは、ないことはない、ないと言うならば
それならあんたの娘を嫁にくれるか
との問いかけで勝負ありでした。これで「差別は生きている」と、本当に「得意になって」解説し、生き生きとして「部落解放運動」の価値観を解いて、伏せていました。
1970年代後半から80年代初期までは、
具体的な「差別事象」を見出して、ちかくに見つからない場合は、全国の差別を、そして、10数年前の事件でも引っ張り出して、さも、もっともらしく「差別がある」ことを解いて伏せ、差別された歴史、悲しい歴史を、解いて聞かせてきました。
同和対策審議会答申を学んでほしいと力説もしてきました。現に、゜幾つかの差別事象゛があり、ある、ということが一定の真実味をもっていた時代的な背景もありました。
「もう何ともない」とか「差別はないと思う」「あなた達の゛ひがみ゛もあるのではないか」などの意見が出されると、とことん追求して「ないことはない、ある」と強調していたのが、それでも1970年代後半、80年代に入るころまでは続いた運動のあり方ではなかったでしょうか。
★1980年になる前後、暗中模索の運動の中で、「部落問題を自由にはなす会」「討論会」を無数の団体に呼びかけて開きました。公民館単位で沢山の人たちに討論をしていただきました。企業や行政や教育界の人たちとも、民主団体とも・・・・・。
多い年は、年に30数団体と話し合いをしてきました。全解連に組織改組・発展し、国民融合の方針を説明し、「いい方針です」と言われて、得意になっていました・・・・、が、どこかが「腑に落ちない」部分がありました、どうしても、腹のそこから「スッキリ」としない、もやもやが続いていきました。まさに、暗中模索と名づけた時代そのものでした。
「自由に話してほしい」と対話懇談会を無数に開いていきましたが、その中で「一言質問や意見を言うと、30分は説明してくれる、結果として「叱られる」との感覚でしかない」との旨を、ある婦人から言われました。部落タブーの生まれる原因が、そのように言われる運動の側、私たちの側にある、と気づき始めていきます。

1981年7月に-本音で語る-同和問題シンポジウム
そして、「黙って聞く、市民の声に耳を傾ける」、そんな集会をよびかけたのが本音シンポジウムでした。このシンポジウムの積み重ねで、私たちが、変わりました、運動も随分と代わりました。
今でも画期的な方針だったと思います、「何とも思わない、差別は無い、と言うことを信じてみよう」と結論付けました。
それでも、数年は、この後に「騙されてもよいから」の括弧書きをつけた方針でした。
@差別はないと言っているのに、私たちは、何故「ある」と強調するのか?
A何とも思わない、というのに、差別心があると思ってしまうのか。
B差別をなくしたいと願い、運動しているのに、なくなった、何ともない、といえば、そうか、そこまで来たか、と喜ぶべき現象ではないのか、私たちの運動は、何やってる、?

★こんな自問自答が繰り返し、繰り返し行われていきます。「差別心がある」と言うまで追求する?、こんな運動があるのか、?、
★1980年代に入ったときには、完全に「暗中模索の中から、何かが見えてきた」感じをつかみかけていました。


全解連の中で、臨調行革のまわしもの、津山は臨調路線だ、と真っ向から批判を受けながらも、それでも、何かがおかしい、と本当に、真剣に-本音で語る-部落問題シンポジウムを開催し、差別されない人間にどうしたらなれるか、どこが差別される原因なのか、などを追究し、自問自答を繰り返していきました。
自分の子供に、部落をどう教えるか、このテーマにも一つの英断が必要になってきていました。活動家の家庭なら自然に覚えるもの、知らさないのは「寝た子をおこすな」の日和見主義だ、の考えが批判的に受け止められ、おかしとの考えが出されていた時期にもなります。
騙されてもよいがな、を取る必要がある
やがて、無くすることを願う運動なら、無いと言う事を信じてみよう、「無い、何とも思わない」というのに、「ないことはない、ある」と反論するのはおかしい、何とも思わないというのなら、それ以上でも以下でもない。
「何とも思っていません」→そうですか、感無量です、そこまで時代は進みましたか、
何故素直に、この気持ちがわいてこないのか?、なぜ、疑心暗鬼から脱皮できないのか、僻むな、被害意識が強すぎる、こんなことをよく言われたものです。
騙されてもよいがな、の運動方針が生まれて、2〜3年、やがて「騙されてもよいがな」を運動方針から取る時期がきます。1990年代の中ころから、何とも思わない、との意見には「そうですか、ありがとう」で良いがな、との方針が話し合われていきます。それでも・・・・、と、言う気持ちが「心のどこかに残る」のも事実でしたが、ある種の「踏ん切り」が必要である、ことは理解されていきました。
自分の子供に「部落を教えるかどうか」→この命題にも随分と悩まされ、苦悩しましたが、「わざわざ教えなくても良いのではないか、自分が《部落民》であることを知らないで一生を送っても、それは、その人の人生として認めてやる必要がある、こんな方針も生まれてきた時期でもありました。

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